高山右近のトピック1ページ


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アッと驚く大スクープ
高山右近が残した「なでしこの歌」には本歌があった!

[第一部]

 2008年6月8日(日) この日は、私たち夫婦にとって、歴史的な日となりました。
「大スクープ記念日」!

妻(忠子)は、書道をやっています。

<妻のメモから>
 夕食後、ほっとする時間があったので、図書館に予約してあって借りてきた「源氏物語」―紫式部がつづる美しい日本―(筒井ゆみ子・編、天来書院)を手にしました。
 墨場必携。 紫式部によって紡がれた世界的名作「源氏物語」から、 かな書道の作品制作の素材としてふさわしい和歌や文章四百篇が精選され、各季節の季題毎にまとめて記されています。
 わが家のプランターに今、 河原撫子が可憐に、美しく咲いていて、毎日、 見るのを楽しんでいます。 髙山右近の、惜別の思いをこめた「なでしこの歌」二首は、 これまでにも書の作品にしてもきました。
「なでしこ」は 〝秋の七草〟の一つですし、作品にする適当な歌があるかなあと思って、まず「撫子・常夏」(〝とこなつ〟は撫子の別名)のところに紹介されているものから見ていくことにしました。
 12の歌や文章が挙げられているのを、順次見ていきました。6つ目の歌になって、

草枯れの籬(まがき)に残る撫子を
別れし秋のかたみとぞ見る
〔光源氏〕(葵)

とあるではありませんか! えー、これは一体どういう事?
 右近さんが残された惜別の歌は、そらんじています。

草枯れの籬(まがき)に残る撫子を
別れし秋のかたみとも見よ

  右近さんの惜別の歌に、「源氏物語」の歌が借用されている!
  右近さんは「源氏物語」を読んでいたし、この歌を知っていたということ。そして ・・・ウーン。
  ただただ驚いて、夫に「これ、どういう事やろう?」と、手元の本を手渡したのでした。
  今年(2008年)は、「源氏物語千年紀」。
  右近さんも、約六百年前に書かれた「源氏物語」を愛読されていたようです。
  ―しばしの時を、いろいろなことに、思いを巡らしていました。

 金沢で、髙山右近と親戚関係にあった 越前屋・片岡家 (片岡休庵の妻が髙山南坊〔みなみのぼう〕の姪)の文書の中に、髙山右近が色紙に書き残した二首の「なでしこの歌」が記録されています。色紙そのものが残っているわけではなくて、目録だけですが・・・。
(金沢市立玉川図書館・近世史料館蔵/「金澤市中古文書三」より)

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高山南坊 草

   壱枚  おろ可成おひ 奈三多能雨州氣連者
          夕日能可遣の大和なてしこ
   
   壱枚 草可連能ま可幾尓のこるなてしこを
           王可れし秋能可多みと毛みよ

おろかなる老(の)涙のうすければ
夕日のかげの大和なでしこ

草枯れのまがきに残るなでしこを
別れし秋の形見とも見よ

●「おろか成おひ なみたの」となっており、「おひ」とはなっていません。
「の」は原書である写本には、ありません。

 これまで、これら二首の「なでしこの歌」は、髙山右近が詠んだオリジナルのものと思って、何の疑いもなくきたのでしたが・・・、アッと驚く大スクープ!髙山右近が一から詠んだオリジナルのものではなくて、「本歌取り」のものだったというわけですから、本当にビックリしました。
 「髙山右近が残した『なでしこの歌』には、本歌があった!」
 その発見の経過を記していきたいと思います。
 「草枯れの・・・」の歌が、「源氏物語」の中の『葵』の巻に記されていることはまちがいなさそうですが、わが家に「源氏物語」の原本も翻訳本もありません。
 翌日(9日)、市立図書館に出かけて行って、「源氏物語」の原文にあたることにしました。
 「源氏物語」が並べられている書棚を調べてみますと、 「源氏物語」は何冊かあるのに、さすが「源氏物語千年紀」の年ということでしょうか、 各分冊になっている内、「葵」がのっている最初の方の部分はどれも借り出されていて、書棚に残っているのは、その後のものばかりでした。
 仕方がありませんので、原文は後日にあたることにして、谷崎潤一郎・訳の「源氏物語」がありましたので、それで調べることにしました。
 「葵」の巻が52ページある中の35ページ目に、光源氏の歌として、「なでしこ」を生まれてきた若君(夕霧)に、「秋」を夕霧を産んだあと亡くなった妻(葵の上 )になぞらえて、

草がれの籬(まがき)に残るなでしこを
わかれし秋のかたみとぞ見る

とうたわれていました。確かにありました!


 もしかして、「おろかなる老いの涙のうすければ 夕日のかげの大和なでしこ」の歌も、「源氏物語」の中にある歌かもしれないと思って、大冊1692ページある「源氏物語」(谷崎訳)を、時間をかけて、1ページ1ページ、チェックしていきました 。 (あとから「源氏物語・索引」なる本があることを知りましたが)。もしかして、もしかしてと思いながら、特に「常夏」(とこなつ・撫子の別名)の巻など期待して調べてみましたが、そこにはなくて、ついに最後まで見終わりました。短歌は数多く「源氏物語」の中にありましたが、「おろかなる・・・」の歌は、発見できませんでした。


 「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」「千載和歌集」「伊勢物語」なども調べてみましたが、どれにも見あたりません。
 「おろかなる・・・」の方は、右近さんの作られた歌なのだろうか? でもなんとなく、そうではないような気がしてきました。

 もう少し調べてみようと思って「新編国歌大観」(全20冊・角川書店)をあたることにしました。第一巻の「勅撰集編・索引」で「おろかなる」を調べてみますと、23もあります。そして、「おろかなるおいのなみたの」と続いている歌が、 一つだ け示されているではありませんか! もしかして!! 「続千載和歌集」の1700番目の歌だとあります。


 「新編国歌大観」第一巻の「勅撰集編・歌集」を取り出して、「続千載和歌集」の所を開けました。 巻一から始まって、どんどん進んで「巻第十六」〝雑歌上〟の1700番と番号が記されている歌。
 さあ、どうでしょう? 作者は、権大納言経継。


    おろかなる老の涙の露けきは
夕日の影の山となでしこ

ありました! 夢のようです!! 「老の涙のうすければ」ではありませんが、この歌が「本歌」であることは、まちがいないことでしょう。

 髙山右近と親戚関係にあった越前屋・片岡家(片岡休庵の妻が、髙山南坊の姪)の文書の中に記録されている、髙山南坊が色紙に書き残した二首の「なでしこの歌」は、ずっと〝右近が詠んだ二首の和歌〟(オリジナルの)と思っていましたが、ほぼそのままの本歌があったのでした。


● おろかなる老の涙の露けきは
夕日のかげの山となでしこ
(権大納言経継・続千載和歌集)

● 今も見てなかなか袖を朽(くた)すかな
垣ほ荒れにし大和なでしこ
(葵の上の母・大宮の返歌・源氏物語「葵」)

● おろかなる老の涙のうすければ
夕日のかげの大和なでしこ



○ 草枯れの籬に残るなでしこを
わかれし秋のかたみとぞ見る
(光源氏・源氏物語「葵」)

○ 草枯れの籬に残るなでしこを
わかれし秋のかたみとも見よ


 右近が、「太平記」などの戦記物だけではなくて、「源氏物語」や「続千載和歌集」などの王朝物語や和歌の本も、よく読んでいたことがわかります。(現代のように容易に手にすることはできませんでしたよ。)
 それらの中から、「なでしこの歌」を二首選んで、自らの心境をこめてうたい直し、色紙に書き残したわけですが、右近は「唐(から)なでしこ」(石竹)ではなく、「大和なでしこ ・ かわらなでしこ」をこよなく愛していたようですよネ。
 その「なでしこ」を詠った歌を本歌として、一部を自らの心境に合わせて変えて、片岡家の人たちへの別れの歌として、色紙に書き残していったのではないでしょうか。

 右近が、この色紙を残したのは、金沢を追われた年・1614年(慶長19)だと思われますが、片岡休庵(越前屋二代孫兵衛)は、2年前の1612年(慶長17)に亡くなっており、三代目の休嘉(妻は、内藤如安の娘)の代になっています。

 本歌取りの和歌を、惜別の歌として残す右近。それを受ける、親戚の越前屋 ・ 片岡休嘉。右近と休嘉、この二人の間に共通理解できる基盤がなければ、本歌のこころを借りて歌った右近の心も、伝わっていかないわけですから、右近だけではなく、休嘉たち片岡家の人たちも、「源氏物語」やいろんな歌集を読んでいたはずです。


※「なでしこの歌」が、すべて髙山右近自作のものであると思っていた時の<解釈>

 ・「なでしこ」は右近本人
 「わかれし秋」も、右近本人

◎休嘉殿、私はまもなく、金沢を追われ、皆さんと別れていこうとしていますが、あなたがたのために何もできないような、おろかな老いびとには、涙も多くは流れてくれません。ちょうど、しずみゆく夕日の草かげに咲いている大和(河原)なでしこのような感じでしょうか。
 もし、多くの草が枯れた後の籬に残って咲いている「なでしこ」の花を見つけられましたら、別れていった私の形見だと思って眺めてください。


※「なでしこの歌」の本歌に、髙山右近が別れの心を託して詠んだものと考えた時の
<解釈>

 ・「なでしこ」は〝撫でし子〟とも記されるように、子ども、あるいは若い女性になぞらえられることの多かった花です。
 ・歌ごころ、大和ごころをよく理解していたはずの右近が、「なでしこ」を自分自身になぞらえるなどということは、ちょっと考えられませんよネ。
 ・「なでしこ」は、金沢に残していく人たち(親族やキリシタンたち)「わかれし秋」は、右近本人

 ◎休嘉殿、 私はまもなく、 金沢を追われ、皆さんと別れていこうとしていますが、気にかかるのは、しずみゆく夕日の草かげに咲いている大和なでしこのような、残していく親戚やキリシタンの人たちのことです。
 私たちも読んでよく知っている、あの「源氏物語」の「葵」の個所で、母である葵の上を亡くし、残された、なでしこのような若君のことを思って、葵の上のお母様の大宮は、袖が朽ちるほどに、涙を流されました。厳しいキリシタン大禁教の中で、あなたがたのために何もできないような、おろかな老いびとには、大宮ほどの涙は流せそうにありません。
 権大納言経継公は、「おろかなる老の涙の露けきは・・・」と詠っておられますが、私の涙は、「露けき」にも及びません。うすいうすい、うすっぺらな涙でしかありませんが、でも、でも心にかかっているのは、大宮や経継同様、「大和なでしこ」、残していく人たちのことです。
 一族の皆さんのこと、キリシタンたちのこと。この人たちのことを、休嘉殿、わかれていった私の形見だと思って、よろしくお願いします。

 本歌取りの和歌であることがわかり、髙山右近さんが残された「なでしこの歌」の心が更に深まり、ますます好きになりました。

 髙山右近さんも愛読された「源氏物語」 これまできっちり、通して読んだことがありませんので、「源氏物語千年紀」のこの年に、読んでみようと思います。

〔まだまだ続きます〕

 

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〔第二部〕

●「おろかなる・・・」の歌の作者・権大納言経継についてですが、姓は藤原だと思って、藤原経継を、いろんな人名事典で調べてみましたが、どれにも記されてはいませんでした。

 このこともスクープに近いことですが、6/27、妻と図書館に行った時に、よき協力者に知っておいてもらおうと、「この本から見つけたんだよ」―と、「新編国歌大観」が全20冊並んでいる所に案内しました。

 そして、第一巻の「勅撰集編・索引」を手にとったつもりでしたが、20冊の並べ方が二段になっていましたので、実際に手にしたのは、第四巻の「索引」でした。

 〝おろかなる おいのなみたの〟の所を、妻に示そうとしましたら、「続千載集」ではなくて、「文保百首」となっています。一瞬アレ? どういうこと?! もう一首、「おろかなるおいのなみたの・・・」の歌があるわけ! これはビックリ!!

 急いで、第四巻「私家集編Ⅱ/定数歌編・歌集」の方を取り出して、その個所を開いてみました。ありました!

  おろかなる老の涙の露けきは

       夕日の影のなでしこの花

 最後の七が、「山となでしこ」ではなくて、「なでしこの花」になっています。

 さあ大変! 3つ目の「おろかなる・・・」の歌の発見です。 ・・・・でも、作者の名前を見て、納得しました。

  正二位行権大納言臣藤原朝臣経継

 同じ作者でした。しかも、藤原姓がはっきりと記されていました。

 「おろかなる老の涙の露けきは 夕日のかげの山となでしこ」には、添削前の元歌があったのです。
「続千載和歌集」の編纂にあたり、当代歌人の中から選ばれた人たちが、百首ずつ、自選の歌を提出しました。藤原経継もその中に入っていたわけですが、詠進した百首のうち、「続千載和歌集」には、三首が選ばれて入集されています。

 その内の一首が、「おろかなる・・・・」の歌ですが、最後の七を、「なでしこの花」から「山となでしこ」に変えたのは、「続千載和歌集」の撰者であった二条為世(ためよ)なのでしょうか?

 当世はやりの「唐なでしこ」(石竹)ではなくて、可憐な「大和なでしこ・かわらなでしこ」の方だよーと言っているような気がします。

●近世史料館におたずねして、回答をいただきました。近世史料館・蔵の「片岡孫作文書」が、片岡家に代々伝わってきたオリジナルのものか、それとも、前田家編輯方で、史料を借用・写本したものなのか、今の所、断言できませんが、右近の和歌以外の個所を見てみましても、筆の運びが生々していて、筆蹟を似せて書いたものではありえません。

 内容だけを写本したのでしょうか。それにしては、右近の「なでしこの歌」の中だけでも、書きまちがいが2箇所あるのに、ぐるぐるの丸で消して、横に書き直しています。正確に内容を写本していく場合には、考えられません。そういうまちがいをした時は、新しい紙に書き直すか、せめて、上から紙をはって書き直すぐらいのことはするはずです。

 又、「金ニ而一巴ニ・・・」の添書きも、気づいて後から追加して書いた感じで、罫線の上に書き留めています。内容だけの写本でしたら、きっちりこのために一行与えることでしょう。

 以上のようなことからして、「片岡孫作文書」の原本が、明治期に、「金沢市中古文書」を編纂している「前田家編輯方」に保管・活用を託され、「前田家編輯方」で編纂したものを、更にきっちりと保管・広く活用していただける 金沢市立玉川図書館・近世史料館に、前田育徳会より寄託されたのではないでしょうか。

 新たな事実が明らかになっていくことを願います。

 さて、発見の経過に話をもどしましょう。

 以上のような流れの中で、右近が残した二首の「なでしこの歌」の中身を考えてみたのでしたが、なんとなく、スッキリしないものが残るのです。どうしてでしょうか?

 一首めの「おろかなる・・・」から見ていきますと、〝老いの涙〟が何のための涙なのか、はっきりしないのです。「夕日のかげの大和なでしこ」がいきなり出てくる感じで、これは一体何? 〝大和なでしこ〟って、だれのこと? という感じで、違和感があります。

 「涙のうすければ・・・大和なでしこ」 これだけでは意味をなしません。言葉足らずです。

 それで、先になした<解釈>でも、二首めの「草枯れの・・・・」の歌から出発すると、初めて意味が通じる感じで、そのつながりで、老いの涙の意味もはっきりしてきますので、そのような<解釈>にしています。

 どう考えても、この歌の順序にはムリがあるようです。

 そうしたことがスッキリしないまま、悶々と考えていた時に、又又、すごいことが起こってしまいました。

 6月22日(日)の真夜中すぎ、23日(月)の午前3時ごろ、寝床の中で目が覚めてしまいました。 頭が、右近の「なでしこの歌」のことをあれこれ考え出して、頭がさえてきて、とても眠れそうにありません。その時、ハッと思いあたったのです。

 この「なでしこの歌」の本歌(の一つ)は「源氏物語」だった!

 「源氏物語」では、まず「草枯れの・・・」の歌。 そして、その返歌として大宮の「・・・大和なでしこ」の歌だった! 右近は、大宮の歌を 「・・・大和なでしこ」 は踏まえながら、藤原経継の歌に置きかえましたけれど、順序はやはり、この順序でなければ心がつながりません。この二首の本歌を借りて、その心を残していった右近さんの心も伝わっていきません。

 これまで、片岡家文書に書き残されたものにとらわれてしまっていましたけれど、「源氏物語」を踏まえているとしたら、順序は逆だったのです!

 ではどうして、片岡家文書の順序になったのでしょうか。

 この右近の残した二首の歌は、一首ずつ別々に二枚のしき紙に書き残されていました。

 「片岡家文書」を書き記した人は、片岡家に伝わる品々の在庫目録を作る時に、高山南坊が草した二枚の色紙がありましたので、それを記録に書き留めていきました。

 二枚の色紙の上のものは「おろかなる ・・・」で、下のものは「草枯れの ・・・・」でした。筆記者には、これらが「源氏物語」にもとづいたもので、〝順序が大切なのだ〟 ということまでには、思いが至りませんでした。 事務的に記録していったのです。

 ですから、これら二枚の色紙を残した右近の心を知っていたら、目録を書いていく時に、歌の順序を逆にして、先に「草枯れの・・・」、後に「おろかなる・・・」とすべきだったのです!!

 さあ、これは大変なことになりました。またまた、大スクープです。

 だれかが、何かを発見・発明した時も、このような感じだったのでしょうか。

 私の気配を感じて、目を覚ましてしまった妻に、

 「又又、大スクープだよ! びっくりするようなことが見つかった!!」

 と、話していくことになってしまいました。


 
(※うたの順序をかえてみたもの)

 ※「なでしこの歌」の順序を変えてみた時の<解釈>

◎休嘉殿、私はまもなく、金沢を追われ、皆さんと別れていこうとしていますが、気にかかるのは、残していく人たち、親族やキリシタンの人たちのことです。

 私たちも読んでよく知っている、あの「源氏物語」の「葵」の個所で、母を亡くし、残された、なでしこのような若君を、亡くなった妻・葵の上の形見と思って見ているとある、光源氏のあの心境が、今の私の心境でもあるんですよ。

 厳しいキリシタン大禁教の中で、あなた方のために何もできないような、おろかな老いびとには、葵の上のお母様ほどの涙は流せそうにありません。

 藤原経継公は、「おろかなる老の涙の露けきは・・・」 と詠っておられますが、 私の涙は、「露けき」にも及びません。うすいうすい、うすっぺらな涙でしかありませんが、でも、でも心にかかっているのは、沈みゆく夕日の草かげに、そっと咲いている大和なでしこのような、残していく親族やキリシタンの人たちのことです。

 一族の皆さんのこと、キリシタンたちのこと。この人たちのことを、休嘉殿、わかれていった私の形見だと思って、よろしくお願いします。

 現在、右近が記した「しき紙」は残されてはいません。目録の中には書き留められましたが、徳川幕府による大禁教の中、権力者に知られれば、一族の存亡にかかわる程の危険な遺物でもありますので、惜しみつつ、処分されていったのでしょうか。

 それとも、どこかに現存していて、大発見!という、大スクープを期待していいのでしょうか?

 ところで、右近が残した「なでしこの歌」のしき紙には、どこにも、日付は残されていませんでした。いつ書かれたものなのでしょうか?

  片岡家に残されたものですから、親戚である越前屋・片岡家に、

  残された若君―葵の上の死―大宮の涙

に重なるようなことがあったのでしょうか。

   一つ考えられることは、右近の姪の死です。

  残された子どもの休嘉―姪の死―右近の涙

 しき紙を受け取った相手は、夫の休庵か?

 しかし、片岡休庵の妻であった右近の姪が亡くなったのは、天正19年(1591年)7月4日で、この時右近は、加賀に来て3年めで、39歳。「老いの涙」という年齢ではありません。

 それに、そういう状況の中でなら、金色で紋様を添えているというのも、不自然です。

 これら二首の歌の「わかれし秋」は、別れていこうとしている右近自身で、「かたみとも見よ」、即ち、遺言だと思って、片岡家に書き残していったと考える以外に、説明できるような状況は、なさそうです。

 そして、このことは、「源氏物語」の本歌の心と見事に呼応していると思われませんか?

 この間(かん)、私たち夫婦は、今回の「大発見・大スクープ」に大パニック状態で、つねに

 〝心定まらず〟という感じでしたが、以上でやっと落ちついた生活にもどれると思っていたのですが・・・、第3彈ともいうべき「大スクープ」が待っていたのです。

 片岡家文書を、改めてじっくり見てみますと、「なでしこの歌」二首の他に、書き留められていることがあります。

  ・高山南坊 草

  ・しき紙

  ・壱枚

  ・(丸い紋様のようなもの)

    ・金ニ而一巴ニ○竹ノ○○

①「草」というのは、〝草稿〟という言葉もある通り、「下がき」という意味です。

 右近が片岡家に遺したのは、「下がき」のしき紙のようです。

 それでは、正式に書いた別のしき紙があったわけでしょうか。勿論、そうとも考えられますが、もしかすると、もともと、正式に書いたというよりは、内容から言っても、飾っておく物としてではなく、手紙がわりに書かれたものですから、さらさらと、草書体で、下がき、又は下がきのように右近が書いたしき紙だったーと言えそうです。

 そういうしき紙が残っていたことが、わかります。

②「おろかなる・・・」の歌の最後に、落款のように、絵らしきものが描かれています。

 ○の中に描かれているのは、まちがいなく「なでしこ」(大和なでしこ)でしょう。

③最後の行に、

 金ニ而一巴ニ○竹ノ○○

 これを「金ニ而(て)一巴ニ唐竹ノ模様」と釈文を記してくださっているものがありますが、「唐・模・様」の3字は、いろいろ、くずし字の本で調べてみても、?マークです。

 書道をやっている妻も、いろいろ調べてくれましたが、「唐・模・様」と考えるのは、ムリがあるようでした。

 しき紙の下地に、「唐竹の模様」でも、うっすらと描かれているというわけなのでしょうか。たまたま、そういうしき紙用紙が手元にあったので、それを使用した、というだけのことなのでしょうか。でもなんとなく、スッキリとしません。

 わかっている部分から、類推していくことにしました。

 金で描かれている「一巴」とは何でしょうか。 「三つ巴」という言葉がある通り、「一巴」は「一つ巴(ともえ)」と読んで、おたまじゃくしのような紋様のことです。

 ここで又又、妻が場外ホームランです。

 「なでしこの歌の最後に描かれている丸のことと違うのん?!」

 えーッ、そうか、そうだったんや! ただの○にしか見えていなかったけれど、これが「一つ巴」だったのです。

 「一つ巴」に抱かれる形で、「なでしこ」が紋のように描かれていたのです!

 そのことがわかると、「一巴ニ唐竹」では話が通じません。「一巴に撫子」でなくてはなりません。「唐竹」ではありません。

 もう、読者の皆さんには、おわかりのことでしょう。

 改めて、片岡家文書をじっくり見てみますと、○竹、問題の文字の個所はゴチャゴチャしていますが、この文書を記録した人は、アチコチまちがっています。「夕日」「なてしこ」の個所でもまちがっていて、ぐるぐる丸という方法で消して、訂正しています。

 この「○竹」の所でも、失敗があったのでしょう。でも、そのつもりでじっくり見てみると、まちがいなく「石竹」に見えてきませんか?

 当時のはやりは、〝なでしこ〟といえば「石竹」(唐なでしこ)でした。

 清少納言も、「枕草子」六五で、

  草の花は なでしこ。唐(から)のはさらなり。

  やまとのも いとめでたし。

と記しているぐらいです。

 なでしこ = 河原なでしこ(大和なでしこ)以上に、なでしこ=石竹(唐なでしこ)だったわけです。

 右近は、しき紙に「大和なでしこ」を描いたのでしたが、この文書の、目録を作った人には、「一巴に石竹」だったわけです。

 

 ここまでくると、問題は最後の二字です。

  金ニ而一巴ニ石竹ノ模様

 模様でも、意味が通じないわけではないでしょうが、「一巴に石竹」を紋様のように描いているわけで、模様では、ピンときません。

 「家紋」の本を調べてみますと、いろんな「抱(だ)き紋」があります。「巴紋」の中にも「抱き巴」がいっぱいあります。

 抱き巴に五三桐・丸に抱き巴・抱き巴に一つ星・抱き巴に覗き剣花菱・抱き二つ巴に片喰(かたばみ)・中輪に抱き巴に立ち鏡・・・・・

 右近が描いたものは「一つ巴」が「石竹(撫子)」を抱いている形になっています。

 最後の二字は、意味から考えて、「抱き紋」なのではないか? 下の文字は「紋」に見えそうです。上の文字も、そのつもりで見てみると「抱」に見えてきませんか?

  金ニ而一巴ニ石竹ノ抱紋

 意味としては、描かれた絵とも、ピッタリあってくれます。

 

 どうして「金ニ而」なのでしょうか。

 金印のように、 右近は 「一巴に撫子紋」 を描き加えました。 墨で「なでしこの歌」を書いてきて、最後に落款代わりの紋様。ふつうは朱墨。特別な場合に金で、ということがありそうです。その他の色は、思いあたりません。

 朱墨の方が撫子の色に近いわけですが、右近は金(こん)泥を用いました。あえてそうしたのですから、右近さんの思いが、ここにこめられているようです。

 遺言ともいうべき、哀しみの別れの歌なのに、金!

 「金」は〝大切なもの・宝物〟に通じます。残していく「なでしこ」・親族やキリシタンたちは、大切な宝物です。その撫子を守るように「抱き巴」・右近や休嘉たち。

 別れていく右近の思いの集約、象徴としての金色の 「抱き一つ巴に、撫子紋」 だったのではないでしょうか。

 

 「一つ巴に撫子」の抱き紋。

 勿論、これは、家紋ではありません。

 右近は、2枚めのしき紙に「おろかなる・・・」の歌を、「大和なでしこ」の言葉で書きおさめた後に、落款のように、「一つ巴ニ撫子」の紋様を描きました。

 「なでしこ」は、残していく人たち(親族やキリシタンたち)、そのなでしこを守るように「一つ巴」でまわりを囲んでいます。これまでは、右近もこの「一つ巴」の働きをしてきた一人だったのですが、別れていく右近には、それができません。

 休嘉殿、あなたが「一つ巴」になってくださいよ―という、右近の心が描かれているように思われます。

 二首めの最後の位置に来て、 二首の「なでしこの歌」の落款のようで、おさまりがとてもよくなりました。

 

 以上。 少し疲れました。 ここまでにしたいと思います。最後までおつき合いいただき、感謝します。

 

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