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酒井法子さんへ
2009(平成21).8.8 酒井法子容疑者を逮捕 覚せい剤所持認める
酒井法子? 最初にその名前を、新聞のニュース記事で知った時、ふだんテレビで歌 番組やドラマをほとんど見ることもないので、初めて聞く名前だと思った。
娘にニュースのことを話すと、その人のことはよく知っていて、 「ほら!『星の金貨』のドラマで手話で演じていたし、主題歌の『碧いうさぎ』も大 ヒットしたやん。絶対、顔を見たら、ああ、あの人やと、見たことがあるはずやわ」 と言ってくれたので、早速、パソコンで検索して、画像で、顔写真をいっぱい出して みるが、やはり、見た覚えがない。一緒にのぞいていた妻も同じだった。
芸能界の人たち・有名な人たちは、なかなか大変なんだなあ。こういう ニュースが、またか?!という風になってきているもんなあ。
でも、ちょっと待てよ。この顔、7年前(2002年)あの NHK大河ドラマ「利家とま つ」の中で、まつ(松嶋菜々子)・ はる(天海祐希)と共に、秀吉の妻・おねを演じていた人に、何となく似ている気がするなあ。 そう思って、当時のパンフレットを出してきて見てみると、やはり、『おね(酒井法子)』となっているではないか。 なかなかの好演で、松嶋菜々子・天海祐希と共に“女たくましく”戦国の女性を見事 に演じていた。7年前、毎週楽しみにして、見まくっていた顔だったのだ!!
酒井法子さん。すんでしまったことは仕方がありません。でも、このままでは、天国 (天のパライゾ)には行けません。 これを、立ち止まるよい機会として、自分をしっ かり見つめ直し、再出発してくださいネ。 祈っています。
陶像『マニラでの髙山右近・感謝』が高槻に
ギャラリー・写真集「髙山右近・金沢紀行」でも紹介していますが、殉愛キリスト教会に陶像の「マニラでの髙山右近」(中野勝二・作)があります。
右近が天に召される少し前の右近像で、感動的です。中野さんが制作された「マニラでの髙山右近」の像に、実は、もう一体、召される一週間ほど前の右近像があることをご本人から教えていただきました。
髙山右近はマニラ到着後、40日ほどして重い熱病にかかり、その後、10日ほどして1615年2月3日の未明に天に召されています。63歳でした。
中野さんの、もう一体の「マニラでの髙山右近」の像は、マニラに到着して40日ほどして、重い熱病にかかって病床に伏す少し前の髙山右近と考えていいでしょう。
強健だった右近の肉体も、金沢からマニラまでの過酷な追放の旅ゆえに、限界に来ていたようです。地上での生涯を終え、あこがれの天の故郷・パライゾに召される日が近づいていることを右近は自覚して、63年間のあのこと、このことを思い巡らせます。とりわけ、12歳の時に、大和・沢城で洗礼をうけてからの50年間の主なる神・デウスの恵みを想い起こし、主への感謝があふれてくる右近。
その時の髙山右近を作品にされているという、中野さん作のもう一体の、「マニラでの髙山右近像」是非、拝見させていただきたい、そして叶うことなら、髙山右近ゆかりの地・高槻の「髙山右近研究室・久保田」にお迎えしたいものだと思いました。
思いきって、中野さんの作品を展示しておられる“ぎゃらりー霧”に電話してみました。何と、中野勝二(かつじ)さん御本人が電話に出て来られました。 4/19 の「山縣実牧師・二万曲記念コンサート」の時に、金沢・都ホテルで同席させていただいたのですが、よく覚えていてくださいました。
ふだん、気持ちが乗らなければ制作されない中野さんが、マニラでの髙山右近の生き様に感動されて造られた「マニラでの髙山右近像」を、殉愛キリスト教会の「右近庵」の床で拝見し感動したこと、そして、中野さんの作陶の姿勢や作品に敬服していることなどをお話し、「“髙山右近研究室・久保田”のためにも、右近像を一つ造っていただけませんか?」とお願いしてみました。
そうしましたら、何と、中野さんの方から、「“右近庵”の“マニラでの髙山右近像”は亡くなられる直前のものだけど、もう一つ、もう少し、一週間ほど前の右近像も一緒に造ったのが、わが家にあって、毎日、眺めて暮らしている。」とのことでした。
「それを、”髙山右近研究室・久保田”にわけていただくことはできませんか?造られた二体の“マニラでの髙山右近像”が、右近ゆかりの金沢と高槻にあることは、大いに意義があることだと思いますよ。」などと、力説いたしました。
中野さんに、右近さんに対するわが熱い思いが通じたのか、又、中野さんも、自作品を手元に置いておくことにはこだわりがないようでしたので、ゆずってもいいという気持ちになってくださいました。その作品を私が見ていないことを気にかけてくださっていましたが、私は中野さんの芸術性をかっていましたので、中野さんの気持ちが変わらないうちに「できるだけ早く、すぐにでもお送りください。」とお願いしました。
後からお聞きしたことですが、中野さんの奥さまが、この像をこよなく愛しておられたそうで、高槻に行ってしまうことを知られて、思わず「キャーッ!」と悲鳴をあげられ、私に相談もなしに・・・・・「本当に行ってしまうの?!」と訴えるように確かめられたそうですよ。
6/23 完璧に箱づめされて、右近像が宅急便で届けられてきました。 「髙山右近研究室・久保田」の新たな宝ものを、時間をかけて丁ねいに、開封していきました。そして、幸せな、初めてのご対面。正に、金沢・右近庵の「マニラでの髙山右近像」と好一対をなす、奥深い、見事な、すばらしい、愛すべき、貴重な 右近像 でした。
二体の「マニラでの髙山右近像」が、髙山右近ゆかりの金沢と高槻に在ることの幸いを思います。わが「髙山右近研究室・久保田」の方の右近像に『マニラでの髙山右近像・感謝』と命名してみました。
実際の作品は、ギャラリーの写真集をご覧ください。
※ 中野勝二さんのホームページ ぎゃらりー霧 です。ご覧ください。
◎2004年以前のものは、リンク「とぴっくす」をご覧ください。
右近トピックス《2009年》
● 11/26、毎週木曜日朝10~12時まで、カトリック高槻教会でもたれています「髙山右近研究会」でご一緒し てきた田中庸策兄が帰天された。今は、天国(ぱらいぞ)で、右近さん達とお会いされていることでしょう。
● 10/12、日本基督教団「八尾東教会」(有澤慎一牧師)の13名の愛兄姉を案内し、「髙山右近展」観覧・高槻 城周辺の“右近ツアー”の時をもった。
● 10/10~11/29、髙山右近ゆかりの高槻で初めての「北摂の戦国時代・髙山右近」展が開催された。 あわせて、何回かの講演会など関連の企画がなされ、10/31には、「右近茶会」(主催・高槻東ロータリー クラブ)も開かれた。
●“高岡開町四百年”にちなみ、「米原商店」(高岡市)が、高岡城を設計したキリシタン大名・髙山右近の イメージキャラクター「右近たん」(うこんたん)を生み出してくださり、いろいろな「右近たん」グッズを 製作・販売されている。
● 9月、映画「火天の城」封切。原作/山本兼一、監督/田中光敏 出演:西田敏行・大竹しのぶ・椎名桔平 (織田信長)他 安土城が、少しずつ建て上げられていく様子が、圧巻だった。
● 6/23、陶像「マニラでの髙山右近像」(中野勝二・作)が高槻に、「髙山右近研究室・久保田」に到着した。 「マニラでの髙山右近・感謝」と命名。
● 6/6、大阪クリスチャン・センターで「OCCまつり」がもたれ、「髙山右近研究室・久保田」も出店し、 DVD「右近の四季」「NHKテレビ・髙山右近」などを放映した。
● 加賀銘菓の「越野」(金沢市)より、「右近復烏而(ホウル)」(ボウロ)が、新しく売り出された。 お茶菓子にどうぞ!
● ホームページ掲載の、写真集「右近の四季」のDVD完成。[写真661枚のスライドショー・43分]
● 大阪・中津にある「南蛮文化館」の5月特別開館があり、5/5、は大阪キリスト集会の皆さんといっしょに出かけていきました。例年、5月と11月に開館してくださっています。(入館料800円)「髙山右近書状」も展示されています。(其後、ご返事もむつかしく候わんと・・・)
つづいて、崇禅寺にある「細川玉子の墓」を訪ね、賛美と祈りの時をもちました。
● 例年 5/5 に、「髙山右近受洗之地」で行われてきました「右近こどもまつり」ですが、第39回目になる今年は、4/29(水)に日にちを変え、会場も、伊那佐文化センターにおいて行われました。
● 4/19(日)、山縣 實牧師・賛美歌三万曲達成「三万曲記念コンサート」が、金沢都ホテルで行われました。横田幸子アナウンサー(テレビ金沢)の司会で、" 三万曲への歩み " がスライドで紹介され、教会聖歌隊による賛美「三万曲への道」、琴・フルート・リコーダー(それぞれ独奏)の演奏がありました。
● 髙山右近ゆかりの高槻の地で、「右近もなか」「右近羊羹」を製造・販売してくださっていた 田辺屋(天保8年・1830年創業)が3月末日をもって店じまいされました。
● 3/29(日)一宮聖光教会(愛知県)で、「現代に復活する髙山右近」と題して講演会がもたれました。
(講師:久保田典彦)
● 3/15、" 白山郷土大学 " で、「三度の試練を超えて~加賀藩と髙山右近~」題して、殉愛キリスト教会(金沢市)の山縣 實牧師が語られました。
● 新刊紹介
「徒然王子 第二部」(島田雅彦・作、朝日新聞出版)の中に、髙山右近が登場してきます。
発展するキリシタン時代の教会と現代
溝部 脩 司教
「キリシタン時代の教会」について、お話したい。
キリシタン時代の教会には、司祭は不在なのに、信者を増やしていったのは、どこに原因があったのか。
現代的な問題を、キリシタン時代が与えているといえると思います。
皆さんは、「教会」といわれたら、どういうことを連想するでしょうか。
昔の教会って、どうだったんだろうか。どんな教会を作っていってたんだろうか。今の教会と、昔の教会は、同じだったんだろうか。どういうシステムだったんだろうか、という問題提起です。
山形県の米沢の教会を例にとりながら、考えていきたいと思います。我々が考えもしないような教会を、昔の教会は作っていたのです。
米沢教会には、神父さんはいません。一年間ぐらいを除いて、司祭は一度もいたことがないし、住んだことがないのです。 しかし、教会は厳然としてありました。 信者の数は3千人をこえていました。そして、53名もの殉教者をいっぺんに出したほどの教会だったのです。でも、神父さんはいなかったのです。
この教会は、どんな風に維持されていたんでしょうか。
現在、45万の日本人の信者数(カトリック)、司祭の数は1553名です。(日本人926名、外国人627名)
290名の信者に一人の司祭がいることになります。ブラジルの国では、何万人に一人です。300名に一人などという国は、ありません。恵まれています。
司祭と修道者を合わせると、7814名になります。何と、50名の信徒に一人の聖職者がいることになります。こんなに恵まれた教会が、世界のどこにあるでしょうか? 少し、発想法の転換が必要です。
キリシタン時代を見てみましょうか。今述べたような状況は、全然ありません。それなのに、キリシタン時代には、考えることのできないほどの信者の増加を示しています。これは、何なんでしょうか。
一方、今日(こんにち)の、恵まれた状況の中で、停滞して、ずっと横ばいで来ている日本の教会とは、何なんでしょうか。どこに違いがあるのでしょうか。
キリシタン時代の司祭数は、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して10年後、
1560年 2人しか司祭はいません。
70年 6名。宣教の地域は、九州・中国から京都にまで広がっています。集団改宗が続き、キリ シタンの数は20万近くになっています。
77年 司祭20名。
87年 「伴天連追放令」が出た年。
司祭28名。
90年代 司祭40名。信徒30万。
1602年 イエズス会の他に、フランシスコ会・ドメニコ会・アウグスチノ会の司祭も加わって、 68名。
12年 司祭が一番多かった時で、108名。信徒の数は50万。宣教の地域は、東北までのびて います。(広範囲に散らばった5千人の信徒に一人の司祭)
信者の共同体があり、その共同体がある所を神父さんが訪ねています。神父さんは、信者たちに特別なことをするわけではない。信者のリーダー達と話をして、基本的な教えを伝えて聖体を準備して、又次の所へ行く。
特別な教会堂があるわけではありません。信者のグループが集まる所が教会なんです。
そこを回っていく神父さんが、全部で100人なんです。巡回ですね。回っていく所に、信者がいるんです。信者が、自分たちで教会を維持し、自分たちの共同体を作っている。そこに、神父さんが行くのです。
それぞれの教会では、米沢の教会の場合は、「談義者」 といわれる信者の代表的な人たちが、日曜日の礼拝をささげている。
主日の福音書(部分訳)を朗読し、説明する。みんなでお祈りをする。 説教についての分かち合いをする。賛美の歌をうたう。神父さんがのこしていったご聖体を配る。
こういう教会のあり方ですね。力強く、信者の数をどんどん増やしていく教会だったんですね。
神父さん達は、交通の便が極端に悪い時代でしょう? 今なら考えられない。歩いて教会を回っていくのです。ここで、司祭の役割が見えてきます。
米沢教会では、1626年には200名だった信者が、3年後の1629年には3千名になっています。でも、司祭が定住したことがないのです。教会堂もありません。あるのは、談義者といわれていた甘糟右衛門や黒金市兵衛たちの屋敷があるだけです。
信者たちは組を作り、いろんな小さな共同体に分かれて、自分たちの信仰を分かち合いながら生活していました。12の男の組と4つの女の組がありました。
米沢だけでなく、他の地方でも、小さな、信者の組がたくさんありました。神父さんの働きは、そのグループを訪ねていって、ミサをささげます。秘蹟をささげます。
基本的なこととして、信者を中心とした教会の在り方を、400年前の教会は実行していたのです。
新しい場所での宣教については、神父さん達は、自分達だけで行くことはしないで、ある人たちといっしょに生活して、キリスト教の理解がうまくいったなあと思う人を、新しい所へどんどん送っていきました。今で言うと、信徒宣教者を、教育して、東北の各地に送っていきました。 人々が送られた所に、 新しい共同体が生まれていきました。このようにして、教会を発展させていきました。神父さんは、生まれた共同体を歩いて回って、ミサをして、秘蹟をして、次のところへ行く―という方法をとっていたのです。
「談義者」とは、どんなことをするんでしょうか?当時、聖書の翻訳は、全部はありませんでした。でも、各日曜日のための福音書の個所とかは翻訳されていましたので、それを読み合わせをすることができました。主日には必ず集まり、集会祭儀の司式をする。賛美をし、祈りをし、話をする。それが終わって皆で分かち合いをする。
週日では、葬式、病人の訪問、結婚の司式・証人となる。聖体を配っていく。子どもに洗礼を授ける。勉強会(教理書を何回もくり返す。暗記して覚えていく。子ども達に、くり返し伝えていく。) 典礼暦年を知っている。(日本暦との対比)
司祭が不在の中で、教会の中心、徹底して教会を守っている人が「談義者」と言われる人でした。
九州の浦上では、三親方【教え方(かた)・水方(みずかた)〔洗礼を授ける〕・暦くり方】がいたようです。
こういったことがわからないと、 キリシタン時代を理解するのはむずかしいかな、という気がします。
上意下達的なピラミッド型ではない。逆ピラミッドなんです。信徒たちがいて、その信徒たちと共に働く聖職者がいる。そうした中で、いっしょに働く神の民が作られているのです。
今、 私たちは、どういう教会を作っていくのか、真剣に考えていく時代になってきていると思います。400年前の教会を見た時に、我々は、恵まれすぎている中で、教会の本当の姿を見失っているのかもしれません。
九州の島原の教会の場合も、見ておきましょう。
島原では、50人が一組となって「小組」を作り、それぞれの組をとりまとめている、組の親がいました。50人ずつ集まって組を作り、信仰を分かち合って祈りをしていました。50人の人たちには、役わりがありました。(お金を扱う人、病人を訪問する人など)
そして、小組がいくつか集まって「大組」を作り、それぞれの組に親がいました。
更に、大組が全部集まって「総組」を作り、総親がいました。総親は、島原半島全体をおさめている人(信徒)になります。
神父さんは、それぞれの組の親の所をたずねていきます。
それぞれの組の親たちは、お話をする。病者を訪ねる。洗礼をさずける。結婚式に立ち合う。死者を葬る。勉強を教える。教育をする。―米沢の教会の場合と同じで、これらのこと全部を信徒である親たちがしているのです。
「教会」というものに対する見方が、全然違っているといってもいいと思います。
信者が指導しているのですから、たいしたことができていなかったのでしょうか。 そんなことはありません。
きびしい迫害の中にあっても、神父たちは、リーダー(談義者・組の親)を養成し、教会を守り、又、新しい場所にリーダー達を送りこむことによって、教会を発展させていきました。
司祭を中心とした教会から、信徒を中心とした教会へ。神父さん達は、それぞれの組を励まし、組を中心として、日本の教会を維持していきました。
幕府による迫害が強まり、神父たちを捕えて殺していきましたが、キリスト教の力がいっこうに弱まりません。 ようやく、教会の活動の中心が信徒たちであることに気づいた権力者たちは、1626年以降、信徒たちへの迫害を始め、組の親たちが殉教していくのです。
「キリシタン時代の教会」の姿は、現代の教会を考えていく材料を提供してくれていると思います。
私たちが、 当然のようにして持っている教会のイメージは 、はたして、本当の教会の姿なんだろうかと、この機会に考え直してみたら、と思います。私たちは、気がつかない内に、官僚主義的な、教会の制度を守ろうとしている面があるのかもしれません。そして、それは、イエス様の教えからは遠いかもしれないなあ、という気がするのですね。
歴史から学ぶとしたら、「キリシタン時代の教会」の姿を見た時に、自分たちの今の教会はどうなんだろう。本当にこのままでいいんだろうか。もっと活力ある、発展していく教会のあり方を考えることができないだろうか。
「発展する教会」 にあっては、キリシタン史から学べることは 、①まず信徒があって、教会があったということ ②その信徒があった所に司祭たちが訪れたということ。その反対ではない。―という問題提起を私たちにしている、と思います。
〝教会は、信徒の組、共同体〟これが、教会が強く生き、迫害に耐えていった、殉教者を出すほどに強固なものになっていった大きな原因の一つだと見ています。
このことは、初代教会の場合も同じで、教会が発展していくことの中では、大体同じようなことが言えるのではないか、と思います。
霊の力、私たちを内から揺れ動かすほどのものが、いろんなものを生み出していっていると思います。
既存の組織が固まってくる時に、 この何かが無くなっている。 今の日本の教会は、丁度こういう現象ではないかなあ。これを揺り動かすものが要るのかなあ、という気がします。
※2008.2.3 カトリック高槻教会での講演より
ビッグニュース!
「高山右近研究室・久保田」がテレビに登場!!
(TV画面のクリックで、「ぐるっと関西プラス・髙山右近」スナップ集にリンクします)
■ 2008年12月20日(土) 午前10:50~12:00
NHKテレビ「ぐるっと関西プラス」 (関西圏で放送)
<進行・・・桂米團治、水野麗奈、秋鹿真人アナウンサー>
● コーナー 大人の遠足〔関西いろいろ偉人伝〕
『髙山右近』
<リポーター・・・末成由美(吉本興業)、泉ゆう子>
(お世話になった、スタッフの方々)
ホームページ「髙山右近研究室・久保田へようこそ」が紹介され、そして、「髙山右近研究室・久保田」にもカメラが入り、末成さん・泉さんも入室、リポートしてくださったんですよ!
6月8日の「大スクープ記念日」につづいて、12月20日は「テレビ放映記念日」となりました!!
12/6(土)、番組製作スタッフの山田隆司さんから、電話がかかってきました。番組で「髙山右近」を採り上げてくださるそうで、インターネットで検索し、わがホームページ「髙山右近研究室・久保田へようこそ」を見て、お電話をいただいたのでした。
12/11(木)、担当の松浦拓也ディレクターと山田さんにお会いし、午後から関係の場所をロケハンしました。
「高槻城跡公園」「埋蔵文化財調査センター」「髙山右近研究室・久保田」「キリシタン遺物史料館」「下音羽・大神家」「クルス山」などを精力的に回っていき、ギリギリ間際の撮影交渉をしていきました。日はとっぷりと暮れておりました。放送9日前のことです。
12/14(日)、「インサート撮影」と言って、番組の編集・進行の中で次々と使われていく、建物の外観や遺物等の個々の撮影が行われ、わが「髙山右近研究室・久保田」にも初めて、テレビカメラが入り、多くのものを時間をかけて撮影していってくださいましたよ。
(撮影の ようす)
12/15(月)、放送5日前。いよいよリポーター部分の撮影です。一点の雲もない青空で、暖かい一日でした。朝8時半に一行の車が2台、わが家に到着しました。妻も、私のアシスタントとして同乗をゆるしていただき、最初の撮影地の茨木・千提寺地区へ。ここで、別の車から降りてこられた末成由美さん・泉ゆう子さんと初顔合わせをし、挨拶いたしました。
「クルス山」ふもとの「千提寺教会跡」のマリア像の所で、私がリコーダーを吹いている場面からスタートです。曲は、クリスマスの時期ですので、クリスマス・キャロルの「あら野のはてに」の折り返し部分。
お二人を相手にお話しながら、案内していくのですが、まずい部分は、編集でどんどんカットしてくださるわけですから、大した緊張もなく、順調に撮影がすすんでいきましたよ。
クルス山の、最初に発見された「上野マリヤ」の墓碑、大神家の貴重なキリシタン遺物、キリシタン遺物史料館(ここでもリコーダー、「きよしこの夜」)、午後からは、埋蔵文化財調査センター、キリシタン墓地、カトリック高槻教会と進んでいって、夜の7時前、最後の撮影場所「髙山右近研究室・久保田」へやってきたのでした。
そうなんです。末成由美さん、泉ゆう子さん、ディレクターの松浦さん、山田さん、カメラマン、照明、録音などの人たちが「髙山右近研究室」に入って(何という人口密度!)、撮影してくださったのです。放送には登場しなかった、貴重な多くの撮影がされたのですが・・・・、ディレクターの松浦さんに、「放送に使われなかった貴重なフィルムはどうなるんですか。『髙山右近研究室・久保田』に資料としていただくことはできませんか?」とおたずねしましたが、「それが、ダメなんですよ。」とのこと。廃棄されてしまうのだそうです。あ~~~あ、もったいない!!
わが家がロケの最後でしたし、夜の8時近くになっていましたので、「右近もなか」でお茶を一服。皆さんに「来会者ノート」に記帳していただき、記念の写真をとらせていただきました。
“インガスンガスン”
(末成由美さんの記帳のことば)
収録の後、12/16(火)~18(木)まで、私たち夫婦は、予定していた「長崎」旅行に出かけていきましたが、ディレクターの松浦さん達はこの3日間で、ぼう大な収録フィルムから重要部分を厳選、編集されていかれたわけで、徹夜に近い作業が続いたのではないでしょうか。その大変さが思われます。
放送前夜(12/19の夜7時頃)、山田さんより、「今最後の、編集の仕上げに入っているんですが、ゴルゴダですか、ゴルゴタですか?」とたずねて来られましたよ。ご苦労さま。
12/20(土)、いよいよ放送当日。
実は、「ぐるっと関西プラス」の放送そのものは、NHKスタジオからのライブで、一部のお客さんも同席される形ですので、山田さんから、「当日、スタジオに来られますか? カメラを向けますよ。」と言ってくださっていたのですが、謹んで、ご辞退させていただきました。
放送分のDVDはいただけるとのことですが、ビデオ録画の準備をして、その時・歴史的瞬間を待っておりました。
10時50分、「ぐるっと関西プラス」の放送が始まりました。そして、11時半頃、大人の遠足〔関西いろいろ偉人伝・髙山右近〕のはじまりです。末成由美さん・泉ゆう子さんがスタジオに登場されて、髙山右近ゆかりの高槻から案内されていきます。そのお二人を案内するということで、お二人との出会いの場面で、私の初登場です!
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クリスマス、イエス・キリスト、十字架、きよしこの夜 など、 いっぱい登場してきていましたよ。
限られた放送時間であるわけですが、見事な編集で、さすがプロのお仕事と感服し、感動いたしました。
私のお気に入りは、大神家の「キリスト磔刑像」を見て、末成さんが、「皆さん、こわくはないんでしょうか?」とたずねてくださったので、「十字架でキリストが血を流されたのは、自分のためだった、私の身がわりになって血を流してくださったんだ、と思って信仰しているんですよ。
だから、こわいとかいうのとは違うんですよね。」と答えているところでしょうか。
放送後、いろんな方々から、お電話をいただいたり、声かけしていただいたり、感想を聞かせていただいたりしました。「放送を見た」といって、未知の方からお電話をいただき、貴重な資料を送っていただくということもありました。
今回の番組製作に関わられたすべての方々に、そして、視聴してくださったすべての方々に、心から感謝いたします。
主なる神さまの祝福が、豊かにありますように。
● 12/12”テレビ放映記念日”NHKテレビ「ぐるっと関西プラス」で「髙山右近」が特集され、「髙山右近研究室・久保田」やホームページも登場、紹介していただきましたよ。
●11月17日夜、 二十六聖人記念館 ・ 初代館長で、キリシタンの研究をよくしてくださった 結城 了悟神父(本名・パチェコ・ディエゴ)が、天に旅立たれました。 86歳。
● 戦国武将・キリシタン大名・築城そして茶の湯の名手
〈連続講座〉髙山右近
回 | 日 時 | 内 容 |
---|---|---|
1 | 09/27〈土〉 2時~3時半 |
髙山右近の生涯 |
2 | 11/29(土) |
髙山右近が城主だった頃の高槻 |
3 | 01/24(土) |
山崎合戦の頃の髙山右近 |
4 | 03/21(土) |
事実無根 - 寺社焼き打ち伝承等について - |
講師 髙山右近研究家 久保田 典彦 (髙山右近研究室・久保田)
場所 高槻福音自由教会 (TEL 072-685-6632)
● 厳かに列福式 殉教者188人「福者」に 11月24日(月) 式場:長崎県営ビック N スタジアム 約三万人が参列し、祝いました。
米沢の殉教者53人、京都の殉教者52人、島原・雲仙の殉教者29人、加賀山一族18人など。 尚、高槻の出身者は、加賀山隼人とマグダレナ南の二人。
●列福式記念特別展示
「殉教者とその時代」11/1日~1/12日 於:日本二十六聖人記念館
「髙山右近書状」(上智大学キリシタン文庫・蔵)も展示されていました。
● 新刊紹介
「ペトロ岐部と187殉教者歴史・巡礼ガイド」(ドン・ボスコ社、1000円+税)
●「髙山右近研究」の第一人者・山縣 實牧師(金沢・殉愛キリスト教会)が、20年以上前から(1985年~)、毎日右近への思いや聖書、自然を題材に賛美歌を作り続けて来られましたが、10/20 で作曲が3万曲になりました。3万曲目の賛美歌は「三万曲への道」。記念コンサートが、2009年4月にもたれます。
●「私の髙山右近」「曼陀羅華」の著者・関根 和美さんが,8/27~9/8、「オーストリア・スイス、バロック劇 台本 管見の旅」をされ、ウィーン国立図書館やザルツブルグの St.Peter 教会で、「栄誉と慈悲の結婚」や「気丈な貴婦人」といった、髙山右近や細川ガラシャを題材にした音楽劇の台本を閲覧して来られました。
(ウィーン在住の研究者・新山 富美子さんと共に)
● 6月8日(日)「大スクープ記念日」! 髙山右近が残した「なでしこの歌」二首には、本歌があった!。